No34 2010年秋冬号



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●伊東孝/橋のある「まち」28
 トラス橋の宝庫 江東区


江東区は橋のまちである。しかもトラス橋の宝庫だ。日本でまた世界の都市で も、これほどトラス橋の多い都市は存在しない。(正確には「地区」という方がよいかも知れないが、このまま「都市」で続ける。)橋の都といわれた大阪で も、橋の数は多かったが、江戸時代は木橋であるし、近代ではスチールの桁橋が多かった。それではわたしたちの江戸はどうか。江戸時代は、大阪と同じく木橋 であり、しかも実際には江戸の方が橋の数は多かった。現在東京の下町に残る古めの橋は、基本的には、関東大震災後にかけられた震災復興橋梁である。千代 田・中央区にはアーチ橋が多く、江東区はトラス橋が多い。
 世界の都市に目をむけよう。江東区はかつて、東洋のヴェニスにたとえられたが、まずはそのヴェニスである。ヴェニスの運河にかかる橋は、基本的には煉瓦 造のアーチ橋である。同じく東洋のヴェニスにたとえられた中国の蘇州や杭州などの水郷鎭にかかる橋は石造のアーチ橋だ。ロシアのサンクトペテルブルクにも 運河にかかる橋が多いが、桁橋やアーチ橋が基本で、トラス橋は少ない。

一、歴史的に重要で、デザイン的にも優れているトラス橋
  ここまで一気に書いてきたが、多少数値的な裏づけをしておこう。震災復興事業では、東京の下町に九橋の隅田川橋梁をふくめ全部で四二五もの橋を大正一二年 から昭和五年の七年間に架設しなければならないので、明確なアーバン・デザイン・コンセプトをもって橋の配置計画を考えた。まず隅田川橋梁は、隅田川が帝 都を代表する河川なので、橋のひとつ一つのデザインを変え、「橋の博覧会」とした。また河川の一番下流側にある橋は、河川の入口(ゲート)になるので、こ こも万年橋や上之橋(現存せず)のような下路式のアーチ橋として、橋のデザインをひとつ一つ変えた。下路式にしたのは、舟の右折左折を考慮した上でのこ と。また隅田川の右岸側(千代田・中央区)で景観を重視するところはアーチ橋とし、江東・墨田の左岸側の河川の交差部はトラス橋にしている。また橋のタイ プや親柱や装飾などには、皇居を中心としたデザイン・ヒエラルキーもあった。
 したがって江東・墨田区にはトラス橋が多いという ことになるのだが、当時の区域は西半分の深川・本所区であった。そこに二六のトラス橋が架設され、うち深川区には二一のトラス橋があった。ちなみに右岸側 は南高橋の一橋のみ。で今日、江東区には、いくつのトラス橋が残っているのであろうか。一三橋が現存している。三分の一のトラス橋が残っているのである。 これは、江東区の全橋梁一七〇橋のうち約八%、ちなみに震災復興当時では、深川区一七五橋のうちトラス橋は一二%であった。相対数と絶対数、ともにトラス 橋は現在、少なくはなっている。
 同じトラス橋でも、明治期(南高橋、中央区)と震 災復興橋梁、そして現代のものとでは、大きな違いがある。時代があたらしくなるにつれ、橋の部材が細くて、華奢なものから、太くて無骨なものに変わる。デ ザインは、親柱や高欄、橋名版などの装飾で、部分的なデザインであるのに対し、震災復興期は部材自体に丁寧な仕上げが加わり、トータルデザイン的になるの に対し、時代が下り、技術的には進んだ現代ではデザイン的な配慮は、せいぜい親柱や高欄ぐらいで、機能的で経済性重視になる。この辺の具体例は、南高橋 (中央区、明治三七年竣工の旧両国橋を移設)、区内の復興トラス橋、相生橋をみてもらうとわかるにちがいない。
 河川や運河にトラス橋のある風景。目で見てすぐに わかるこんなにわかり易い都市の特徴は、なかなかあるものではない。江東区では、亀久・万年・福寿・東富の四橋を区の都市景観重要建造物に指定している が、わたしにいわせれば、すべてのトラス橋を、また区内に残るすべての震災復興橋梁を景観重要指定物件に指定してもよいと思うし、景観にこだわるのなら、 もっと周辺の建物や河川護岸などを整備し橋の見栄えをよくすべきだと思う。(今後、整備していきたいという区の姿勢の現れと考えないと片手落ちになるだろ う。)もし現状が景観という点で不十分だとしたら、震災復興橋梁は、日本の近代橋梁の出発点であることを考えれば、国の登録文化財にすることも考えられ る。全国区で考えたとき、桁橋ひとつとっても、都内に残る橋より古いものを探すのは結構大変なのである。


二、舟で巡って、まちをきれいに!
  今回選んだ「江東区の橋二〇選」(次号に掲載)は、橋の魅力を知ってもらいたいとの願いから、さまざまなタイプの橋を選んだ。時代も現代の橋まで入れてあ る。選定方針をまとめれば、①歴史的に貴重な橋、②由緒だけでは駄目で、現地で証明できるモノがある橋、③見栄えも重視、同じタイプの橋なら、きれいに見 えるものを代表格とした、④見てわかりやすいように、多様な橋の形を選定、⑤まち歩きをしてほしい、となる。
 橋を見るのは、舟に限る。しかも屋根のない釣舟に限るのである。 屋形舟だと、屋根が邪魔して前方や橋の下も見えないし、周りの景色も見えない。川風も感じられない、窓を閉め切っていると、水の匂いも感じられないのであ る。これに対し、釣舟に乗ると、空を背景に橋のシルエットラインがくっきりと浮かぶ。舟で橋めぐり・まちめぐりをすると、思いもかけない構造物にであえ る。水門はいうに及ばず、江東区には、他都市ではなかなかお目にかかれない、可動橋のアーバンゲートブリッジがあり、小名木川とその延長には、扇橋閘門と 荒川土手の荒川ロックゲートがある。平日であれば舟で通れる。ゲートのしずくよけに、できれば傘を持参するとよい。
 川の水も街並みも、みんなが利用するとますますきれいになる。ま た建物の裏になっている川側の街並みも、舟がたくさん通れば、裏側もきれいになるし、いずれ正面に変わる。舟めぐりを通して、水をきれいに、そして街並み もきれいにできるのである。






● 2009年度・学内演習教材(抜粋)
「勝鬨橋から見る地域の歴史」 (下)
 
  東京学芸大学社会科教育学教室 社会科地域教材論  歴史班
  担当教官:坂井俊樹
  4年:浅井 郁也 市川 智子 山口 俊輔
  3年:吉川 征輝 森口 香里 山本 幸矩 渡辺 辰也
  2年:豊田 佳史 原 久美子


◯東京港域の建設・拡大 (一部重複掲載)
・日の出、芝浦、竹芝埠頭の整備と発展に並行して晴海埠頭が昭和三〇年に開設されたことなど から、産業物資の流通拠点が川から海岸に移った。
・結果的に河川流通は縮小し、河川周辺倉庫の郊外移転が始まった。
(イ)接岸荷役と沖荷役の推移
 昭和二四年が一五三一隻で約二八〇万トンであったのが、昭和三〇年には五五五一隻で約九一 二万トンと急増していることが分かる。また、船舶の急増はほとんど沖荷役によって処理され、接岸荷役は昭和二六年で一五%、昭和三〇年でも四四%あり、施 設の接収がいかに東京港の利用を変則的なものにしているかが分かる(表ー1の最後欄「合計」「接岸荷役/沖荷役」参照)。
 接岸荷役よりも沖荷役の比率が高かったことから、東京港で物の積み降ろしが行われるより も、勝鬨橋付近まで船舶が来てから、積み降ろしがされていたと読み取れる。
※接岸荷役・・船を岸壁または陸地に横づ けにして貨物を積み下ろしすること。
※沖荷役・・沖合に碇泊中の船の貨物の積 み下ろしをすること。
 中央区内では、昭和四〇年(一九六五)において東京のなかで三二%を占めた倉庫面積の比率 が、平成五年(一九九三)には五、五%にまで低下している(表ー2)。

◯倉庫減少の要因
(イ)立地条件の悪化
①艀荷役港であった東京港が、近代的岸壁を備えた海港として変貌し、埠頭背後の倉庫が隆盛を 迎え、河口付近の倉庫利用が減少した。
②隅田川に防波堤が建設されて以来、物資の運搬が多くは陸送に変化した。
③都心部の交通は混雑を増し、貨物の荷動きが近隣住宅地等の生活環境へ悪影響を及ぼす傾向が あった。
④倉庫業の土地に対する収益性は低下し、施設の老朽化とも相まって、三井・三菱・住友・乾倉 庫など隅田川河口沿岸の倉庫会社は、倉庫を廃止して、オフィスビルやマンションなどに建て替えを進めた
(ロ)東京都の政策
中央区では昭和四〇年代以降、隅田川河口周辺の再開発の検討が進められていたが、「中央区再 開発基本構想」(昭和四七年)で一応の方向が示され、その後、東京都が「大川端再開発基本計画」(昭和五五年)を発表したことにより、大規模倉庫群の再配 置等が都による整備方針として明確になり、倉庫の廃止とその敷地の他の用途への転用などの再開発を推進することになった。東京都都市計画局の調べによれ ば、大川端再開発地域の約一八%は倉庫の敷地からの転用であった。
(ハ)運輸形態の変化
 自動車という革命的な運輸手段の出現により鉄道・海運は影を潜める形になっているが、輸送 量を見ると鉄道こそ減少しているものの、海運は一定の上昇傾向を示している。さらに環境保護の観点から水運は見直されており、依然として海運・水運の果た すべき役割は大きい。
 第二次世界大戦後の経済復興過程では河川による貨物輸送が見られなくなり、自動車の輸送量 が飛躍的に伸びている。復興期当初は、鉄道輸送に多くを頼ってきたが、次第に鉄道による輸送割合は減りわずかなものになっている。一方で海運は戦後復興と ともに輸送量を増やしてきた。





Ⅴ.まとめ・考察
 私たちは中央区月島・ 勝どき地区のシンボルである勝鬨橋について調査を進めてきた。勝鬨橋は日本を代表する可動橋であり、時代の変化と共にその果たす役割を変えてきたことに特 徴がある。橋が架けられる前は渡し舟、いわゆる人力で築地・月島間の移動がなされていた。しかし、人口の増加や天候に左右されるという問題点から渡し船の 限界を感じたために橋の架橋が求められた。架けられてからの勝鬨橋は築地地区や京橋地区から工業地域である月島地区への移動手段として機能し、また、そこ を通る船は隅田川流域を往来して物の運搬を行う物流の役割を果たした。太平洋戦争が終結すると、戦後復興に際し東京港が物資の輸送基地として整備が進み、 東京港の利用が大幅に増えた。さらに朝鮮特需を機に、一九六〇年代を通じて自動車が普及し、その利用が増えたために、勝鬨橋を開けることはかえって交通の 妨げとなった。一九七〇年に勝鬨橋が完全に閉じてからは、勝鬨橋は主に陸上交通の手段として使用されるようになっている。
 また、東京港の発展も勝鬨橋の開閉回数が減少した大きな要因であった。月島周辺に諸物資を 運んでいた船は下流の埠頭で積み降ろしをすることができるようになり、勝鬨橋を通過する必要がなくなった。そうした変化に伴い、東京港の発展に拍車がかか り月島周辺の倉庫が郊外に移転し、マンション群が建設されるといった工業立地の変化も生じた。このような環境が、地域の歴史として古くから存在している近 代技術遺産に対する住民間の関心度に濃淡が生じているようである。しかし、これからは地域住民全体が地域財産の一つとして『勝鬨橋』と共存していく 「夢」があってもいい。
 このような時代的変化の中で勝鬨橋をもう一度、昔のように「あげる」ことで街の活性化を図 ろうとする運動が起きるようになった。平成一九年六月には永代橋、清州橋と共に国の重要文化財に指定され、今日に至っている。
 以上から、今回の研究では、勝鬨橋と言う月島・勝どき地区の歴史的建造物を扱うことによっ て、勝鬨橋が持つ役割の変化から、歴史を追うことで、地域の社会状況が過去から現在に渡ってどのような変化を遂げてきたのかを知ることが出来た。
 私たちが子どもたちに期待することは、ただ歴史的事象を網羅的に学習するのではなく、歴史 を学ぶことによって、過去のことが現在にどのようにいかされているのか、また今後どのようにしていくのか、地域の将来を考えることが出来るようになること である。

 〈お世話になった方々〉
  勝鬨橋をあげる会 加藤 豊さん
  かちどき 橋の資料館 
           木住野 英俊 館長



●思いを叶える橋    
  相模原市緑区 大須賀 豊     

 「川の向こうに、理想 郷がある」と、自分の思いを叶えるために橋を作り、川を渡る。
しかし、それが集団となると、思いを叶えるための橋が、その集団の目的を守るために障害となり、壊されることもあります。それは、その集団が住む集落に繋 がる、唯一の橋だからです。四国の祖谷地方には、かずら橋か架けられており、それにまつわる、平家の落人伝説で語り継がれた橋です。敵に追われ、山中に逃 げ込んだものの、自らの集団を守るために、せっかく架けた橋を切り落とすとのことです。切断しやすいように、かずらでこしらえたとも云われています。
 城郭に架かる橋にも、追ってから逃れるために、通行を遮断する機能が備わったものがあります。皇居の北桔橋、彦根城の廊下橋、松本城の埋の橋、弘前城の 下乗橋等の木造橋などです。井上宗和著『ものと人間の文化史 9 城』に、「防砦上の弱点となるので、戦時にはこれを落とすか、または防備のための特別の工夫がなされた」とあり、この考え方は、一般的であったと思われま す。あえて木造橋としたり、通路を細くしたりと、工夫がされているようです。極端な例は、半分まで石造で、残り半分が木造というのもあります。当時も、現 代のように、「もっと安く作る方法はないのか!みんなで考えて提案しろ!」と上司が叫んでいたのでしょうか?
 さて、私の田舎である会津若松の鶴ヶ城には、「廊下橋」と呼ばれているΠ型ラーメン木造橋(私が勝ってに呼んでいるので、正確な構造形式ではない)があ ります。今は屋根瓦の葺き替え工事中で天守閣の全容を見上げることはできませんが、その工事と城内の説明看板に、面白い説明文がありました。「廊下橋:釘 一本を抜くと、橋を壊せる仕組みになっている」と記されています。(剛接でなく、すぐに壊せるのであれば、ラーメン構造とは云わないと思います。さてなん と呼べばよいのでしょうか?)
 東北の名城・鶴ヶ城は、白虎隊士中二番隊の自害の悲劇が知られています。彼らは、敵の攻撃に対して、北東側の唯一の進軍路である猪苗代湖尻にある新橋川 の十六橋(写真―1、歴史春秋社『やさしく書いた会津の歴史』より)を落とすことに失敗して、城に引き返すのですが、城の橋が崩され、城内に入れずにあの ようになってしまったのかと、変に結び付けて考えるのは考え過ぎです。その一本の釘は抜かれなかったようです。他の隊は、薩長の攻撃を逃れ、東側の廊下橋 より城内に戻ったと観光ガイドさんも説明していました。悲劇の部分だけが語り継がれ、今でもお城は観光客で賑っていす。しかし、朱塗りの廊下橋まで、散策 される方は少ないようで、いつもひっそりとした風景のなかに佇んでいます。擬宝珠をつけた欄干、やわらかい曲線桁の下には、力強い方杖部材が配置されてお ります。構造的にもバランスが取れていると思います。この橋を見るたびに、いろいろの思いが巡ります。学生時代の通学路でもあり、私が所属していた剣道部 は、城内の道場で鍛錬していましたので思い出の橋です。亡き母の画いた廊下橋の絵(写真―2、油絵F8号、一九九〇年作)は、形見として大切に保管してあ りますがこの橋は、大志を胸に故郷を旅立った私の、「道路元標の橋」といえます。
 もう一つ、江戸時代後期に橋にまつわる生死に繋がる話があります。それは、橋の構造と施工の秘密を守るために、施工をした石工が、長送りにされた物語で す。今西祐行著『岩波少年文庫078肥後の石工」』には、石工の「ありったけの智恵をしぼって、こわすための橋、人をわたすためでなく、人をおとすための 橋ばかけました」というセリフの部分があります。そしてその石工の仲間は、鹿児島から地元に帰る国境で暗殺されたそうです。石造であっても、一瞬で崩壊さ せることができる仕掛けがしてあったらしいのです。またそれは、秘密の伝承技術であり、他言しないようにと命までも絶たれたという、悲しい歴史があるよう です。石工が橋について、いろいろ語るなかで、「橋はなにもかざりがなくてこそ美しいとですよ」とほっとするセリフもあります。少年少女達が橋に興味を持 ち始めるきっかけになる良い文学だと思います。
 さて、当時の「釘一ポンを抜き、キーストーンを外す」ことは、現代では、「スイッチをひと押し」することでしょうか?
 電源が入り、モーターが回りだし、ギアーがゆっくりと回転して橋を跳ね上げ、水路空間が確保され、そして思いの詰った山盛りの宝舟を通すことができる 『橋』。それは「戦争での勝利」という思いの詰った名前を引き継いだ勝鬨橋のことです。相手にしてみれば、逆に悲しい思い出につながる橋かも知れません。 しかし今後はそんな悲しい出来事は繰り返さない誓いの橋、新たなスタートの橋としてはいかがでしょうか。橋と一緒に平和な世界に万歳と両手をあげません か。何時かは、みんなで、小さいけれど、大きな思いの詰った、「開・ON」のスイッチを押し、思いを叶えましょう。
 旧泰緬鉄道の「クウェー川鉄道橋」や、バルカン半島の「スターク橋」と〈世界平和友好の橋〉として、友好協定を結ぶことなどはいかがでしょうか?。





●公共事業と遊び心   
  埼玉県戸田市 鹿島 昭治
     

 イ ングランド北部の都市ニューカッスル・アポン・タイン。観光地としての著名度は低いが、かつては軍事上の拠点であり、造船と貿易で栄えた歴史ある街であ る。橋のある街として知られ、街の中心を流れるタイン川には七つの橋がまとまって架かっている。桁橋、アーチ、トラス、と十分も歩けば橋の展覧会さながら の景観が楽しめる。ひとつひとつの形状はまったく異なり、様々なシルエットが錯綜する。形態や色がまったく異なる橋であるが、どれにも共通している点が一 点ある。それは大型船舶がくぐるため、橋脚が非常に高いということ。最古の橋は一八五〇年に完成した背の高い橋で、名前はそのまま「ハイブリッジ」。日本 語なら高橋。その他の橋もすべてハイブリッジとほぼ同じ高さに架けられている。唯一低い橋は、ルーレットのように回転する可動橋で、その名も「スイングブ リッジ」。橋を見るだけで舟運と陸運が共存した歴史が感じられる。
 街の目玉となるアーチ橋「タインブリッジ」はアホウドリの巣となり、近寄る とその鳴き声と臭いに圧倒される。橋が作る風景は五感に訴えてくる。
 そのタイン川に、西暦二千年、新しい橋が架けられた。橋の名前はゲーツヘッ ドミレニアムブリッジ。その見かけはかなり斬新で、尖ったアーチが傾いて配置され、そのアーチをぱたりと倒したように、歩くところも弧を描いている(表紙 写真参照)。本来路面の真下に配置されるべき構造部材のアーチが、傾いている上に路面も弧を描いており、見る人が見れば、もったいないアーチの使い方をし ていることに気づくはずである。実際この橋の工事費は、コスト優先の形式の三倍程度と伝えられている。
 この橋の特徴はその奇抜なデザインだけではなく、ニューカッスルの歴史を踏 襲し、船を通すとことの出来る可動橋であるということ。その開き方も今までの常識を覆すもので、旋回式でも開閉式でもない。橋自体が横に転がるように回転 することで桁下に船を通す隙間をあけるというもので、この動き方は世界に類がない。橋が動く時間は橋詰めに明記され、その時間には橋の周辺に人だかりがで きる。橋が回転するとさながら花火を見物するかのように、一部で拍手が起こる。あがった橋の下を通る船は数十人乗り?の小さな観光船。しかも橋をくぐると そのままUターンして元の場所に戻ってしまう。すなわち観光のためだけにあがっているのである。橋があがった(転がった?)状態での水面からの高さは、前 述のタインブリッジやハイブリッジには及ばず、昔ながらの大きな船はくぐることができなさそうに見える。
 橋の両岸はおしゃれなパブや美術館が新設され、橋によりまったく新しい景観 と賑わいが創出されている。夜は最新のLED照明により虹色にライトアップされ、その虹色は一秒単位でじわりじわりと変化する。この美しい夜間景観のおか げで、橋の周りは夜も散歩やジョギングをする人が絶えない。一つの橋が明らかに街を変えた。歴史の積み重ねを受け入れつつ、橋が未来を切り開いた。そんな 印象を強く受ける。



 「こんな殺伐と したところに普通の三倍のコストで橋を架ける?」、「観光のためだけに動く橋?」、「ありえない!費用対効果を正確に出せ!」おそらくこれが日本の感覚だ と思う。今だと、このような一見無駄な事業は、事業仕分けで真っ先に仕分けられそうである。公共事業は、みんなが幸せになるために、みんなのお金を使って 行う事業である。そのお金は有効に使われる必要があり、遊びで使うわけにはいかない。だから公共事業を行う事業者は細心の注意をはらう。その結果、施主が 個人である建築などと比較すると、公共事業である橋はどうしてもコストを優先した無難な形となりがちである。外国の橋と比較して、最近の日本の橋は「遊 び」がないと思う。戦前期の橋や、バブルの頃の橋は良かれ悪しかれ「遊び」があった。しかしバブルの頃の遊びが過剰と評価され、振る袖もなくなった今、 「遊びは不要」という考えが標準化しつつある。公共事業は悪という図式が成立しかけている今、ミレニアムブリッジのような橋は日本には生まれないのだろう か。
 イギリスをレンタカーで回って不思議に思ったことが一つある。どの都市にも 必ずパブがあり、平日の昼間にビールを飲みながら大の大人がサッカー観戦をしている。ちょうどワールドカップの時期だったということもあるが、あるパブで は子供がサッカーのユニフォームを着て店の外にあふれてサッカー観戦をしている。繰り返すが平日の昼にである。遊びというか余裕のような感覚が日常生活に 溶けこんでいるのだろう。そこには日本に見られる閉塞感は微塵も感じられない。近代科学の礎を築いたニュートンを産み、後に産業革命を起こした、産業の リーダー・イギリス。私見であるが、イギリス人の根っこに「遊び」を感じた。世の中を良くすること、楽しくすることが第一、お金はその次。歩く人の大半は にこやかでのんびりとした顔をしている。
 余談だが、先日仕事で琉球大を尋ねた。沖縄は車社会なので、学生の9割は自 動車で通っており、キャンパスには広大な駐車場がある。地元の方に伺うと、最近学生の車が大きく変わっているらしい。琉球大の駐車場というと、社外パーツ を付けたり、自分で色を塗り替えたりと、昔はやんちゃな車がいっぱい止まっていたそうだ。今はほとんどがノーマルで地味な色の軽自動車。確かに若者の車離 れという記事をいたるところで目にする。こんなことは一例に過ぎないが、私はこの十年で様々な点で日本から脳天気な遊び感覚がなくなってきていることを危 惧している。
 「勝鬨橋をあげる」という事業は、まさに「遊び」の事業である。数億円と言 われるお金をかけ、しかも開いている間は東京都の重要なインフラ「晴海通り」を閉鎖する必要がある。今の日本の感覚にはなじみにくい公共事業である。でも 技術的には可能であることが実証されている。
 公共事業は大勢の人の「意思」で動く。そのひとり一人の心に閉塞感があるか ぎり勝鬨橋はあがらないと思う。閉塞感の正体は「失敗に対する恐れ」なのではないかと思う。高度成長期からバブルの時はそれがなかった。バブルで手痛い失 敗をして人の心に「恐れ」が宿った。まずはそれを駆逐する必要がある。自分の中に宿った「恐れ」は自分で駆逐するしかない。私見だがその最短距離は、外国 を見てその空気を生で感じ、自分の周囲を客観的に見つめ直すこと。そしてそれは研修のように押し付けられるものではなく、自分の意志で決めること。あとは ひたすらどうすればみんなが楽しく幸せに暮らせるのか、自分の専門を生かしながら勉強し、考えること。これに尽きるのではないかと感じている。
 しかるべき場所には、遊び心のある公共事業があってもいいはずである。勝鬨 橋は、日本に笑顔を取り戻す起爆剤の資質を有している『橋』と思う。






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