No33 2010年春夏号

p33c






●伊東孝/橋のある「まち」27
 「100年に一度の危機」=
         「100年に一度の変革のチャンス!」


サブプライムローン問題に端を発する大不況を、マスコミや巷では「100年 に一度の危機」と、まるで自然災害のようにいっている。しかしサブプライムローン問題は、洪水や地震などの自然災害とちがって、人災なのである。人がなし たものなので、基本的には人の知恵と工夫で克服できると考えたい。
 100年に一度なら、100年かかって直せばよいのである。それゆえ「100年に一度の危機」は、「100年に一度の変革や改革のチャンス」ととらえる ことができる。大不況の根本的解決に100年かからないことを祈るが、5年や10年で改革できるものではなく、世代を通じて解決すべきものである。


1、表面的には、「沈黙は金」ではなくなった! 
  1990年代初頭にバブルがはじけてから、また「100年に一度の危機」にはじまる大不況を克服するため、土木業界ではハードとソフトをふくめさまざまな 試みやチャレンジがなされてきた。それに伴い土木技術者に求められる素養や技術も多くなってきた。
 そのひとつに、プレゼン能力がある。プレゼンテーションは、事業 の説明から、橋のデザインや色、公園や親水護岸など、住民に密着する生活関連施設や都市のマスタープランに至るまで、さまざまな分野でおこなわれている。
 「沈黙は金」とし、「見ればわかる」として土木構造物をつくって いたかつての幸福な土木技術者とちがい、現代の土木技術者は寡黙ではいられなくなった。インフラ施設がそれなりに整備され、「見ればわかる」といった単純 なインフラ施設づくりは終えたというべきだろう。また住民の利害や価値観が多様化したことにも起因する。
 今日では住民説明会は土木事業で必要不可欠となり、土木技術者に プレゼン義務が課せられている。住民説明会や住民参加の始まりはわが国では、1970年代の初頭にはじまる公害問題に端を発し、今日に至っていると考えら れる。それとともにさまざまなスキルや概念が海外から紹介されている。パートナーシップやワークショップ、ファシリテーターなどのスキルや言葉が導入され てきた。プロジェクト・マネージメントという言葉も聞かれるようになった。(個人的にはカタカナ言葉を紹介するのに抵抗感を覚えるが、ここではこれ以上の 記述は省略する。)
 その多くは、テクニックの紹介であり、これをわがものにするに は、土木技術者の基本である「用・強・美」の知識と経験が大前提となる。倫理も美に入る。変革や改革は目先のテクニック的な改良だけでなく、本来、本質的 な点を変えねばならない。

二、無から有はつくれない。オリジナリティに敬意をはらおう!
  中国や東南アジア諸国での日本製品の類似品が問題になっている。しかしかつて日本は、欧米諸国とくに第一次世界大戦後はアメリカをモデルにして、わが国の 近代化そして戦後の高度経済成長を成し遂げてきた。当時はアメリカも、開放的でおおらかな時代であった。
 何事をするにも、最初は真似からはじまる。絵画でも贋作づくりは 悪だが、画家の最初の修行は模写からはじまる。勉強や学問、研究にしても同じで、まず真似ありきであり、次に応用である。この繰り返し(現代的にいうと PDCAサイクル、哲学的には弁証法的サイクル)が、オリジナリティを生む。人類の積み重ねた知恵や知識をふまえて、われわれは次の進歩へと進む。それも 教科書に掲載されるほど一般的に知られたものであれば、一般常識と教養であり、引用の必要性はない。ネット書籍で著作権が問題になっているが、基本はオリ ジナリティを尊重し、形としても具現化すべきである。(ネット書籍では、一歩踏み込んでその具体的方法をめぐって議論されている。)そのためには、利益を 生むものであれば対価を支払うのも当然だし、クレディットを入れるのも当然である。ものによっては対価でなく、表彰して顕彰することも考えられる。
 あたらしいアイディアや発見は、論理的な積み重ねで出てくるもの ではなく、生まれてくるときは思考の飛躍がある。それも日々の調査や研究・思考の積み重ねがあってこそ、はじめてアイディアや発見が生まれる。今さら ニュートンや島津製作所の田中耕一さんの例を出すまでもないだろう、
 したがって自己や組織体の常日頃の研鑽は当然として、どこまでが オリジナルで、自分の創意工夫がどこにあるのかを見極めることが大切である。ここにこそ、真の分析力と表現力が問われてくる。

三、役所は制度改革を、業者は技術革新を考えよう!
  変革の要因は、ここかしこにある。まずは個人から直すべきところは直し、よりよいものを吸収すべきであろう。組織体にしても同じである。しかし土木業界に 限れば、仕事の大元は役所にあるので、まずは役所の仕事の発注の仕方や仕事の仕方を変えてもらう方が、改革の速度は速い。
 受注業者である民間業者は技術力をもっているので、それ相応の対 価と保証をすれば、仕事はいかようにもできる。たとえばある事業の住民説明会をおこなうことになれば、それなりに時間がかかるのだから、役所はその経費を 担保すればよい。制度がそのようになっていないのなら、変えればよい。歴史的橋梁に隣接して新橋を架設する場合でも、いままでは施工が面倒、古い橋を保存 してもいずれその橋は架替ねばならないのだから、一遍にやりましょうといって、歴史的橋梁は撤去されてきた。しかし発注者である役所が、「歴史的橋梁は保 存する。工事が面倒でむずかしい分も予算に組み込む」と宣言すれば、技術力をもつ民間業者ができないことはないのだ。社会の仕組みは頭(立場のよい当事 者)から変えていく方が、進み方は早い。社会的軋轢や紛争も少ない。
 それでは民間業者は、役所が変わるのを眺めていればよいのであろ うか。そうではない。役所に変えてもらうのは、制度であり、ものづくりは民間業者にある。役所は仕組みやシステムを変えることに知恵を絞り、民間業者は技 術開発に知恵を絞るのである。仕組みやシステムを変える場合、当事者だけで埒のあかないことがある。そういう時こそ世論やマスメディアの出番である。世論 や住民にシステムの「よし」「悪し」を問うのである。マスメディアは、問題を発見・刺激するだけでなく、問題解決のメディアとしての機能も発揮してほしい と思う。
 技術開発と仕組みは、相互に関係する面もあるので、役所と民間業 者、お互いに内容を理解し合うことが大切だ。役所は技術音痴・図面音痴になっているので、民間業者から技術知識を学び、技術進歩にあった制度改革がのぞま れる。民間業者もスーパーゼネコンを除くと、技術開発部門をもっているところは少ないので、まずは技術開発の志向性をもつことが大切である。そのためには 自社内の組織改革も必要である。技術開発といってもスーパーゼネコンと張り合う必要はなく、スモール技術(伝統技術や地域技術など。シューマッハーは中間 技術または適正技術とも表現)を開発するなど、技術の棲み分けが考えられる。
 役所では、前例主義をなくすことが肝要だ。あたらしいことにチャ レンジするのだから、前例がないのは当たり前である。
 最後に「チャンスは逃すな!」といいたい。チャンスは目の前を 通っていく。チャンスを見抜く眼力と一歩を踏み出す勇気も必要である。

 「100年に一度の危機」をなげいていても始まらない。それゆえにこそ、いままで以上に変革のチャンスが生まれると考えるべきであろう。 日常生活は日々何もしなくても過ぎ去っていく。しかし「100年に一度のチャンス」のときに、黙って見過ごす手はないと思う。「100年に一度」というこ とは、現役期間の三世代分である。100年前を直接経験した人はいないし、経験者から直接話を聞いた人もいない。「座して待つ」より、先人の知恵と知識を ふまえて行動する時期だと思う。行動することによって、いままで見えてこなかったものも見えてくる。活動や行動を、住民や世論、そして次世代を担う大学生 に(できれば小中学生にも)PRし、理解を図ることも大切である。ここ3年、5年、10年のサイクル目標と変革の努力が、二一世紀の土木界の行く末を決め るチャンスだと思う。
(『土木施行』2009年9月号より転載)



● 2009年度・学内演習教材(抜粋)
「勝鬨橋から見る地域の歴史」 (上)
 
  東京学芸大学社会科教育学教室 社会科地域教材論  歴史班
  担当教官:坂井俊樹
  4年:浅井 郁也 市川 智子 山口 俊輔
  3年:吉川 征輝 森口 香里 山本 幸矩 渡辺 辰也
  2年:豊田 佳史 原 久美子


Ⅰ.テーマ設定の理由
 歴史を学習すること は、過去にどういう出来事があって、どのような人物がどういうことを行ってきたのかをただ理解して終わるのではなく、歴史を学習することによって、過去の 先人たちが行ってきた功績や歴史的事象が現代においてどのようなつながりを持っていて、それが現在の私たちの社会にどう生き続けているのかを子どもたちが 考えることができるようになることが望ましい。
 過去と現在の社会とを結びつけることのできる歴史について、調査対象である中央区について 考えていく際に、私たちは中央区月島、勝どき地区にある勝鬨橋に注目した。時代の流れとともに勝鬨橋が担う役割は変わっていき、現在では勝鬨橋は跳開橋と しての役割を終えたが、依然として中央区やその近辺の交通を支える重要な役割を担っている。同時に、平成19年6月に国の重要文化財となった現在、子ども たちにとって勝鬨橋という身近で具体的な建造物を扱うことによって、子どもたちの関心を引きつけることができる。また、歴史を学習する際の導入としてふさ わしいものとなるのではないだろうか。
 さらに調査を進めていくと、特に勝鬨橋周辺、東京港の倉庫の分布と勝鬨橋が持つ役割の変化 をみると、これらは相互的に関わりあっていることがわかる。当時の勝鬨橋周辺地域の社会状況がどのようであったのか、また、現在の社会状況はどうか、それ らがどのようにして変わってきたのかを見てとることができる。さらに、これらの変化は日本の社会状況の変化を知る上で大きな要因となる。こういった勝鬨橋 の役割の変化は歴史学習の目的である現代にも通じる歴史の流れを表しており、この点から勝鬨橋を歴史教育で扱う意味を見いだせる。
 以上のことから本テーマを設定した。

Ⅱ.中央区の歴史(要約)
○物資を運ぶ、中央区の 河川
 中央区は江戸の開府以来今日に至るまで、江戸・東京の中央に位置している。江戸時代以前の 中央区の殆どが葦の生えた潮の浜であったが、家康が江戸形成の第一歩として道三堀の開削・日比谷入り江の埋め立てを行い、新しい町々が造成された。江戸時 代初期、物資の輸送は東廻り航路、西廻り航路など主に海運によって行われていた。しかし、海路による輸送は、不安定性などの問題があったために他の航路を 用いての物資輸送が求められた。そこで、内陸の河川や陸路を用いた物資の輸送経路=奥川廻しが用いられるようになった。このようにして、中央区は水運を中 心に発展した。
○水運から鉄道、車中心の道路へ
 敗戦までの〝近代七〇年〟の交通体系の歴史は、それまでの水運中心から鉄道中心に切りかえ ることにより、近代工業国にふさわしい「地域」の再編成をはかった期間だった。昭和二〇年、東京大空襲によって、都心部の大半が焼け野原になると、残土処 理のため、河川の埋め立てが始まる。水路網の毛細血管的な位置にある内陸部が、いち早く埋められたことは、水路網としては致命的であった。その結果、区内 をめぐる水路網は急速にその機能を失い、自動車交通にその役割を譲った。




Ⅲ.勝鬨橋について
一、概要
 勝鬨(かちどき)の名は、明治三八年(一九〇五年)の日露戦争の勝利を記念して、築地と月 島間に新たに設けられた渡し場である「かちどきの渡し」に由来している。隅田川河口部は、港の働きのある水域であったため、河岸には倉庫や工場が立地し背 の高い貨物船が航行していた。このため、通常は人や車を渡し、一日数回開橋して大きな船を通すことのできる可動橋にした。可動部は七〇度まで七〇秒で開い たが、船が通る間、晴海通りは約二〇分間交通止めになった。



二、勝鬨橋の歴史
(1)勝鬨橋の建設まで
 〈明治維新(一八六七年)前後の概況〉
○住民
 「…まだ月島埋立の行はれなかった時分は、橋もなければ全くの離れ小島、大きいものは住吉 神社の大鳥居だけ、島人といふのは漁師ばかりで、…中略…夕潮がたぷりたぷりと岸によせる頃になると、真昼には人気もないやうに静まりかへつた島の船着場 へ、夕河岸の岸に船が帰ると一としきり、船いくさでも始まつたような騒ぎになる。」(鏑木清方『こしかたの記』)
○幕府
 開国を迫る欧米列強の圧力が強まっており、幕府は島津候の建議を入れ、大船製造禁止令を解 き、水戸藩に命じて石川島に幕営の造船所を建設し、大型船築造の面でも外国と対抗しようとした。明治維新後は新政府に移管され兵部省、次いで海軍省の所轄 となったが、大規模な横須賀造船所に機能が移転してからは、名目のみの存在と化した。明治九年に築地兵器局と合併し据付機械類を同局に移し、官営造船所は 廃止された。
○官営から民営へ、月島発展の根幹
 一八八六(明治九)年一〇月、長崎の平野富二がこの地に石川島平野造船所を創設し、渋沢栄 一の援助を受けて翌一〇年から操業開始した。富国強兵策のもとに、民営化されてからも政府は強力に保護し育成につとめたため、造船業は発展を続け、同時に 関連産業を発生させ、労働力を加速度的に集中させたことで佃島漁業は衰退し、労働力は専ら造船関連業に集中するようになる。(しかし、職人あるいは労働者 に関する統計資料などはない)。         ○東京湾浚渫問題と
 月島・新佃島の填築問題
交通機関の未発達であった当時の状況からして、造船関連業への労働力の集中はすなわち人口の 集中も意味するところであった。したがって、月島・新佃島の填築案が生じてくるのだが、この埋立と絡んで、明治以前から懸案であった東京湾浚渫問題との成 行が注目されるようになる。東京湾浚渫は物資輸送と天災後の処理の必要を満たすためであった。
○埋立後の月島の交通
 明治一六年~ 佃島渡船の開通
 明治二五年~ 月島渡船の開通
 明治三六年~ 相生橋の架設    
 明治三八年~ 勝鬨渡船の開通
○勝鬨橋が必要とされたのは
 人口が増加していくなかで、渡船だけでは需要に追いつかなくなってきた。また、天候にも左 右されるため、不安定な交通手段でもあった。さらに、石川島造船所があったため、軍艦が通れるように開閉式にする必要があった。

*「架橋の建議」【明治四四年十二月市議会         議事速記録14号】
 月島は一見工場島に過ぎたるが如しと雖も、現在戸数は既に五千を数え、住民は二万に達し… 云々。京橋方面への渡船は不便不完全にして到底文明的活動と言えず、一旦強風雨雪に際しては婦女年少者は乗船の危険を恐れて仕事を休むことになる。一朝過 般の如き強風あれば渡船は運航を停止し、只手を空しくして天命を待つ…云々。

(2)勝鬨橋完成後から開閉回数の減少と
    開閉回数の推移(下表)  

三、開閉回数減少の要因       
(1)東京港の時代的推移
○湾岸施設接収
 昭和二〇年、太平洋戦争が終結。連合軍による港湾施設の接収で、その生命線である日の出、 芝浦、竹芝の三埠頭という主要な接岸施設を管理者の管轄外に置かれ、艀を利用して貨物を運ぶ艀役港の状態に陥る。
○アメリカの対日政策の転換と日本経済の 復興
 冷戦の激化とともに、自由主義国家の一員に育成する方向に転換し、「改革」よりも「復興」 が重視されるようになる。また、昭和二五年の朝鮮戦争の勃発により、特需景気が起こる。東京港は米軍特需貨物の輸送基地として、昭和二五年から急激な増加 が始まった。
○湾岸施設、接収解除の実現
 日本は独立国家として再出発したが、東京港の港湾施設の接収は、一向に解除される兆しがな かった。そこで、接収解除運動が始められ、昭和28年以降ようやく徐々に解除が進められた。
○東京港域の建設・拡大
・日の出、芝浦、竹芝埠頭の整備と発展に並行して晴海埠頭が昭和三〇年に開設されたことなど から産業物資の流通拠点が川から海岸に移った。
・結果的に河川流通は縮小し、河川周辺倉庫の郊外移転が始まった。
・追い打ちをかけるようにモータリゼーションの発達で自動車による流通が急激に増え、物資の 運搬は水上から陸上に移った。



(この続きは十二月発行の三四号に掲載)




●勝鬨橋架橋工事
   ―第二期工事のエピソード―     
 かちどき 橋の資料館館長  木住野英俊 

[一]  はじめに
 勝鬨橋架橋工事は、東 京市橋梁技術陣の手により、昭和八年六月十日に着手し、七年をかけて昭和十五年六月十四日に竣工した。
 工事は、図―一に示す四期に分けて進められた。第一期工事は両岸での橋台 工事、第二期工事は二基の橋脚工事と月島側アーチ橋架設工事である。第三期工事は可動部架設工事と開閉用の機械・電気設備工事、最後の第四期工事は築地側 アーチ橋架設工事と仕上工事などである。この工事区分は、隅田川河口部の輻輳する船舶交通を安全、円滑に処理するため、特に大型船の航路を常時確保する必 要から考えられた施工手順であった。ちなみに、第四期工事では、大型船の航路は可動部に限られるため、工事着手に先立ち開閉運転を開始している。
 この小文は、資料館所蔵資料をもとに、第二期工事経過の一端を紹介するも のである。第二期工事は、図ー一に示すように工事現場が隅田川を横断する形になる。工事関係者は、大型船への対応に追われることになった。



[二] 第二期工事―昭和十一年春~秋
 写真―一は、勝鬨橋工 事記録写真集からの一葉である。十一年九月十日に撮影された第二期工事現場である。下流側からの遠景で、写真右手が月島、左手が築地である。月島側の橋脚 は沓座面まで完成し、築地側では支持地盤に向けて掘削が進んでいる。月島と月島側橋脚との間には、アーチ橋の架設の際にその橋体を支える支保工が施工され ている。
 また、築地側橋脚の工事箇所へと工事用桟橋が伸びている。写真―一に、こ の状態での船舶の通行箇所を示す。Aは、大型船などの通行帯に相当する幅員六五mの主要航路である。BとCは小型船の通行帯で、それぞれ幅員一三mある。 これらは、船舶交通を所管する水上警察署との協議に基づき設置された。
 ところで、写真―一を見ると、あまり明瞭ではないのだが、Dにも航路があ る。これは、幅員二七・五mの大規模なものなのだが、なぜ設置したのであろうか。その答えは、第二期工事第三回設計変更書の設計変更理由の中にある。
【資料文書①】
 月島側橋脚並側径間鉄部組立用足代ハ完成シ築地側橋脚及月島側鉄部組立工 事ニ着手ノ工程ニ至ルモ東京湾汽船株式会社ガ移転セサル為築地側主要航路ノミニテハ船舶交通上支障ヲ来スヲ以テ既設足代ノ一部を撤去シ通船路ヲ設ケ其ノ間 ニ仮橋ヲ設置スルモノトス
(昭和十一年二月)。

 文書①にいう、側径間鉄部組立とは月島側のアーチ橋架設工事、足代とは支 保工のことである。また、東京湾汽船株式会社とは、後の東海汽船株式会社のことである。
 ここで、架橋工事当時の隅田川河口部の船舶交通状況を文末の参考文献―一 から紹介しておきたい。
 東京市は、勝鬨橋架橋の基礎調査の一環として、五年六月十日~十五日、午 前四時~午後八時の間、河口部での船舶調査を実施している。これによると、一日平均航行船舶総数は一、二五八隻、このうち永代橋を通過できない大型船舶数 は三○隻であった。当時の永代橋は、隅田川の最も下流に架かる橋である。これを通過できない船舶とは、隅田川河口部を発着するマストの高い帆船や機帆船、 および少数の大型汽船などであった。この大型汽船の主たるものは、永代橋下流の亀島川河口部(現在の中央区新川地区)に発着所があった東京湾汽船(株)所 有の客船である。
 就航状況は、夏季に多く一日八回半、大きさは九○~七六○㌧、最大一、五 ○○㌧であった。
 隅田川河口部の川幅は二五○m程ある。地元のお年寄りのお話によると、こ こを千㌧前後の船舶が航行すると、速度を落としても津波のような押波が発生し、他の船舶は船体を波に直角にして減速するなど退避行動を取らねばならなかっ たという。
 主要航路Aの幅員は六五mに過ぎない。東京湾汽船発着所の隅田川河口部か らの移転は、築地側橋脚工事への着手の前提条件だったのである。航路Dは、この前提条件が満たされなかったために、航路Aを補完するものとして、施工済み の支保工を撤去して設置したのであった。写真―三に、主要航路Aの船舶交通状況を示す。これらから、水上警察署の問題解決意識の大きさを理解できよう。
 写真―一の航路Dには、仮橋が架けられている。これは、月島に設けた工事 基地と築地側の橋脚工事箇所とを結ぶ工事用桟橋の一部を構成している。しかし、航路Bと同程度の桁下クリヤーを確保しているために隣接する航路Cの仮橋よ りも高い位置に架けられている。これでは支保工として使えずアーチ橋の架設ができない。このため、当然のことではあるが、前述の第三回設計変更と同時に、 アーチ橋架設工事の中止手続きが取られた。
【資料文書②】
 本工事ノ鉄部組立工事ハ二月中旬ヨリ着手ノ予定ニテ足代建設ヲ終了シ準備 中ノ處通船ヲ円滑ナラシムル為メ足代ノ一部ヲ取リ壊シ通船路ヲ設置セシ為メ鉄部組立ノ着手ハ不可能トナレリ而シテ組立工事ノ着手可能ノ時期ハ相当期間ヲ要 スル見込ニ付三月二十五日ヨリ組立可能ニ至ル迄工事一部中止下命ヲ仰グモノナリ(工事中止下命書昭和十一年三月)。

 文書②は、アーチ橋架設工事の着手中止の決定に係わる起案文書である。こ こで、文書①②が作成された十一年二、三月頃の第二期工事の進捗状況を見ておきたい。
 第二期工事は、九年九月二十一日に契約、十月十日に着手、当初契約工期は 十一年五月二十五日であった。しかし、文書①②記載の工事状況から明らかなように、当初契約工期まで数ヶ月と迫っていたにもかかわらず、完成していたのは 月島側橋脚にすぎない。残る築地側橋脚の所要工期を考えれば、当初契約工期を大幅に更新せざるを得ない状況にあった。この遅れは、河川での工事の困難さに 加えて、隅田川河底地盤が予想以上に硬質であったことによる。基礎型式や橋脚躯体の構造変更が必要になり、特に締切用鋼矢板の打設や掘削に日時を要してい る。
 さらに、工事を急ぐべき築地側橋脚工事に着手できない状況もあった。主要 航路Aは河岸側にあり、隅田川中央部よりも浅くなっている。ここに東京湾汽船の大型客船を通すため、河床を二m下げる必要が生じ、予定外の浚渫工事を行っ た。この工事の間、築地側の橋脚工事に着手することができず、十年暮れから三ヶ月余りの工事中止を余儀なくされている。
 以上から、工事関係者は、築地側橋脚工事への着手と引きかえに、アーチ橋 架設工事の着手中止を受入れざるを得なかったのである。それから五ヶ月、工事関係者は着手中止の解除に向けて動く。
【資料文書③】
 本工事ノ内月島側鉄部組立工事ハ通船ノ関係上工事施工不能ニ付本年三月二 十五日ヨリ工事一部中止中ノ処東京湾汽船株式会社大型汽船発着位置ガ八月末日頃移転完了見込ニ付鉄部組立ニ取掛モ支障ナキモノト認メラレルヲ以テ九月一日 ヨリ中止解除ヲナスモノトス尚仝汽船発着位置ガ予定ノ時期ニ移転セザル場合ト雖モ此儘中止ヲ継続スル時ハ今後ノ工事ニモ重大ナル齟齬ヲ来ス惧アルヲ以テ仝 汽船ノ移転ノ否トニ拘ラズ九月一日ヨリ一部中止解除ヲナシ鉄部組立ニ着手ヲ致度仰高裁
(中止解除下命請求事由 十一年八月)。
 文書③からは、工事関係者の焦燥感が痛いほど伝わってくる。
 残念ながら、文書③以降の工事経過を示す文書は残されていない。しかし工 事記録写真から、その後をある程度推定できる。写真―二は、十一年十月二十四日撮影の下流側からの工事現場である。航路Dがあった箇所には支保工が復元さ れていて、アーチ橋架設工事への着手が可能な状態になっている。
 このことから、発着所移転の有無はどうあれ、文書③で主張する九月一日を 期して、アーチ橋架設工事に着手するとの意思決定が関係機関の間でなされたものと考えられる。工事着手の時期は、写真―二の撮影直後とすれば、文書②でい う二月中旬から八ヶ月遅れたことになる。アーチ橋の竣工時期も明らかではないが、工事関係論文や記録写真などから、翌年十二年春頃であったようである。
 勝鬨橋架橋第二期工事は、難工事であった。工事が竣工したのは、当初契約 工期から遅れること一年七ヶ月、十二年十二月二十二日のことであった。



[三] おわ りに
 東京湾汽船発着所のそ の後について紹介しておきたい。参考文献―二に次の記録がある。「隅田川口霊岸島に創業以来五十年の歴史を有する東京湾汽船株式会社が、先頃所有船舶数の 増加と其船形の増大に伴ひ、加之其下流に架せらるる勝鬨可動橋工事の進捗に伴い遂に川を捨てゝ海に出る決意をなすに至った。位置の選定に当たりては、種々 候補地が挙げられたが、結局現在の芝区芝浦地先第八号埋立地東南面に本設備を設けることに決した」。
 ここでいう芝浦地先第八号埋立地とは現在の芝浦埠頭のことであり、本施設とは大型客船の発 着施設のことである。また、この施設の工期について次のように記録している。
 「尚ほ工期は開設を急ぎたる関係上比較的短期日を以て竣工せしむることが出来た。即ち昭和 十一年二月初旬に着手し十一箇月を経て同年十二月下旬を以って全設備の完成を見た」。

[参考文献]
   一、築地月島間可 動橋の設計 東京市技師 瀧尾達也
     土木工学 昭和十年七月
   二、東京港に於ける客船発着場施設の概要  東京市技師 清水定次郎
     工事画報 昭和十二年一月




TOP


会の内容に関するお問い合わせ
hhc03176@nifty.com


Copyright (C) 2009- 勝鬨橋をあげる会. All Rights Reserved.