No30 2008年秋冬号

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●伊東孝/橋のある「まち」25  選奨土木遺産

次のページに今年度の「選奨土木遺産」がリストアップされている。ここではその由来と狙い について、簡単に紹介したい。

一、選奨土木遺産と遺産制度の広がり
 土木学会では一九九一年から近代 土木遺産の調査を開始し、一〇年後には『日本の近代土木遺産』を出版している(平成一七年改訂版)。これを調査だけに終わらせないため、前年の二〇〇〇年 には選奨土木遺産制度をもうけ、土木遺産を顕彰して社会や土木技術者へアピールしている。
 土木遺産を保存し、顕彰する意義はどこにあるのか。選奨土木遺産には、四つの主旨があげられてい る。顕彰を通じて、まずは歴史的土木構造物の保存をおこない、結果として次のような効果がでることを狙っている。

(1)土木遺産の顕彰を通じて、歴史的土木構
造 物の保存に資すること。結果として、
 社会へのアピール(土木遺産の文化的価
値 の評価、社会への理解など)
(2)土木技術者へのアピール(先輩技術者の
仕 事への敬意、将来の文化財創出への認
 識と責任の自覚などの喚起)

(3)まちづくりへの活用(土木遺産は、地域
の 自然や歴史・文化を中心とした地域資
 産の核となるものであるとの認識の喚起)

(4)失われる恐れのある土木遺産の救済(貴 重な土木遺産の保護)

などが促されることを目的とする。

 「文化財としての土木遺産」ないしは「土木の文化財」ということを考えた場合、今後はさらに土木遺 産の範疇が広がるに違いない。なぜかといえば、文化財を考えるとわかるように、文化財には構造物や史跡に限らず、美術工芸品(絵画、彫刻、工芸品、書跡・ 典籍、古文書、考古資料、歴史資料)や無形文化財もある。近年では文化財保護法が改正されて、文化的景観も指定されるようになった。

 世界遺産も同じ道を辿っている。(文化的景観は、文化財保護法よりも先に世界遺産で認定してい る。)

 このように考えると、土木遺産も構造物に限られることなく、いずれは工芸品や無形遺産を考える時期 がやってくると思う。土木建設機械や測量器具、実験模型、計算書や図面などの設計図書等、土木映画やフィルム、写真、文献、作業着、道具などの有形物はも ちろんとしても、作業歌、着工・竣工の儀式なども無形文化財になる時代がくるのだろうか。これら未認定の有形・無形の遺産の保護や保存は、行政当局の保護 を待つのではなく、まずは自分たちで守る・保存する努力と自律性がほしいと思う。

 以上のようなことを先月ある雑誌に書いたら、つい先日、日本機械学会は昨年から「機械遺産」制度 を、電機学会では、今年から「電気技術の顕彰制度」を開始したことを知った。また行政当局では近年、「二二世紀に残す佐賀県遺産」や「北海道遺産」といっ た、文化財保護法や条例の枠組みから離れた試みも行われている。少しずつ広がりを見せていることがわかる。


二、選定の効果
 選奨土木遺産に選定されると、ど のような効果があるのだろうか。熱心で賢い自治体では、それをひとつのチャンスにして単なる改修ではなく、選定にふさわしい修復をしなければならないとい う理由をつけてプラスαの予算要求をして、土木構造物を修復している。基礎が洗われ、土嚢で応急処置されていた廃線盛土下の煉瓦アーチ橋は、選定を契機に きれいに整えられた。千葉県南房総市白浜町のめがね橋は、選奨土木遺産の認定を契機に、下流側に堰堤を築いて水をため、名前の由来である水面にアーチが 映って眼鏡になる景色を復元した。これに伴い、観光バスも立ち寄るようになったという。しかし中には、消極的な自治体もある。
(1)選定を断る自治体と要請する自治体

 これはわたしが直接経験したことだが、勝鬨橋を選奨土木遺産に選定しようということになり、受諾を 東京都に打診したことがある。2、3日経ってからの回答は、「ある話が進行中なので、遠慮したい」とのことだった。それ以上詳しくは聞けず、都は文化財行 政と同じく、遺産の保護・保全に熱心ではないと判断した。たとえば都には、近代土木遺産は全国の八%(六六八件)もあるのに、登録土木文化財は皆無である (平成一七年九月現在)。しかし今考えると、「ある話」というのは、重文指定のことだったと納得した。それにしても、永代・清洲橋は選奨土木遺産から重文 指定になったし、新潟の万代橋も同じく「選奨土木遺産→重文指定のコース」を辿ったのだから、受けとっておけばよかったのにと思う。しかしその分、他の土 木構造物のチャンスを奪うので、結果、オーライである。

 これはよい事例だが、悪い事例もある。1年半ぐらい待たされて、断られた事例もあった。最初は、選 挙に利用されるといけないので待ってくれといわれ、翌年は、選奨に値しないと考えるので辞退したいといわれた。

 選奨制度も社会的に定着し、最近では国の重文指定になっているのに認定証をほしいとの話もあった。 選定委員会では、選定できる数も限られているので、文化財になるとわかっているものより、危機に瀕しているものを優先的に選定したり、あたらしい土木遺産 の範疇を探すように心がけるようになっている。

(2)「取り壊すから」と、断る団体と要請する団体

 「改修予定があるから」「取り壊すから」と、断られた場合もある。この理由は理解できても、できれ ば思い止まってほしかったというのが本音である。興味深いのは、取り壊されるので、認定してほしいという依頼もあった。当初、個人的には反対したが、理由 をきいてみると、選奨土木遺産は一連の施設として認定してほしいが、そのうちの一部が施設改修で取り壊さざるを得なくなった。しかし取り壊した後は、そこ に銘版を設置して構造物があったことを顕彰するというのだ。これもひとつの顕彰のあり方と思い、賛成した。


 あたらしい土木文化財を増やし、またあたらしい土木遺産の範疇を広げるためにも、読者のみなさんの ご協力をお願いしたい。それが、インフラという社会基盤を支える土木の理解につながるというだけでなく、日本の国土や文化を知る礎になるからだ。

※「地図中心」(No. 434二〇〇八年一一月)の小論より構成。



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平成二〇年度 選奨土木遺産(土木学会ホームページより)



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●第二回 グランドツアー報告 

  川面から見た都心の景観に思う 中央区勝どき 富沢 茂

 今回の 橋めぐりツアーのルートには水上バスの通らない日本橋川、神田川、小名木川といった隅田川の支川が含まれている。これらの中小河川の水面近くから見える都 心の景観を、是非堪能したいと思いツアーに応募した。
 私たちの乗った釣り船はJR浜松町駅近くの船宿から、古川、東京湾経由で、 隅田川を遡り、永代橋をくぐると日本橋川との合流点に差しかかった。ここからが未知の景色となる。
 伊東先生が、ひとつひとつの橋の歴史や構造をわかりやすく説明してくれる。 橋の構造にとどまらず、関東大震災後の震災復興橋梁として多くの橋が架けられたという歴史的背景や橋の構造や、デザインといえども街の景観と一体的に考え られて建設される点など大変参考になった。先生の解説を聞いていくうちに、橋の欄干の模様や橋の側面にある照明(橋側灯)など、今まで目にも留めなかった ディテールにも注目するようになり、橋が単なる構造物からひとつひとつ違った顔をもつ作品のように身近に感じられるようになった。
 また、解説で興味深かったのは、隅田川右岸地区(日本橋川、神田川など)に 架かる橋と隅田川左岸地区(小名木川など)に架かる橋(主に道路橋)では構造に違いがあるという点だ。都心に近い右岸地区は橋からの眺めを妨げず、また橋 と周辺の景観との調和も保たれやすい上路式(通路が構造物の上にある=見晴らしがよい)アーチ橋が多く、左岸地区は橋からの眺めが鉄骨等の構造物で遮られ たりするが、コスト的に優れている下路式(通路が構造物の下にある=見晴らしがあまりよくない)トラス橋が多いとのことである。橋を眺めながら、何十もあ る構造やデザインの組み合わせの中から「どうしてこの橋はこの形になったのか」ということに思いをめぐらすのも面白いと思った。
 高速道路に蓋をされ閉塞感が漂う日本橋川から神田川に入ると、青空が戻り、 気持ちも晴れ晴れする。JR御茶ノ水駅あたりは、両岸から草木が緑のカーテンのように垂れ下がり、正面には聖橋のコンクリートのアーチが放物線を描き、さ らにその奥には鉄道橋や秋葉原の電気街が遠近法を駆使した絵画のように見えてくる。このツアーのベストビューといってもいいと思う。川・橋・街・空がそろ えばこんな美しい景色になるのだと実感した。反面、空が奪われた日本橋川はその対極の景色であり、明と暗を一度に体感した。
 船は後楽橋を経て再び隅田川に戻り、小名木川を往復、再度隅田川を遡上。綾 瀬川、荒川、東京湾臨海部と時計回りに進み、約四時間にわたる充実したツアーが、勝鬨橋北詰でゴールを迎えた。いくつもの川と多くの橋とその背後にある街 の姿を、目に焼き付けることができた貴重な体験だった。最後に、願はくば、勝鬨橋が跳開している下を同じ志をもった当会メンバーで、くぐってみたいものだ と思った。

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「日本橋川」「神田川」を巡る 町井 広子

 七月二一日「海の日」、天気は梅雨 明け直前の曇り空。今年も「グランドツアー」の日がやってきました。
 浜松町を出発した船は、東京湾に出てレインボーブリッジを間近に見、「隅田川」に入ります。最初に通るのは「勝鬨橋」、跳ね橋の下を潜ります。振り返っ てみる「勝鬨橋」はとても大きく、強さと美しさを兼ね備えています。いつか、開いている橋の中を船で通ってみたいものです。また、開いている橋を水辺のテ ラスから眺めてみたいものです。「佃大橋」「中央大橋」「永代橋」と進みます。川幅は広く、水はゆったりと流れ、遊覧船やモーターボートが行き交い、両岸 にはビルが建ち並び、岸辺のテラスを人々が散策しています。まさに大都会の川です。
 それらを見ながら船は「日本橋川」に入って行きます。「日本橋川」の最初の橋は「豊海橋」。その後に続く橋の名前や、河岸の名前に江戸時代の水運の隆盛 がうかがわれます。橋と橋の間は短く、ひとつの橋を潜ると、また、すぐに橋を潜ります。通りの一つひとつに橋が架っているように思えます。日銀本店や日本 橋などの歴史的な建造物を見て進みます。「日本橋」は、美しいアーチと凝った装飾を施した明治時代の豪華な橋です。今では高速道路が上をふさぎその景観が 半減してしまい残念です。しばらく進むと、川の中に高速道路の橋脚が立っています。船はそれを上手に避けて進み、「新三崎橋」を過ぎた先で右に曲がって 「神田川」に入ります。
 「神田川」は江戸時代の外堀です。両岸は高くなり、左岸は木々の茂る土手、右岸はつた草が這う石の土手で、その底を川が流れています。辺りは橋もなく、 緑豊かで静かなのどかな風景です。江戸時代もこのようであったかと想像します。緑の門のような「御茶ノ水橋」を潜るころ、行く手に高く「聖橋」の美しい アーチが見えてきます。この辺りがツアーのハイライトです。「聖橋」の名前は公募で決まりました。湯島聖堂とニコライ堂の二つの聖堂を結ぶ橋という意味だ そうです。名前の通り気品のある橋です。そして、両岸の古い倉庫がレストランに変わり観光化しつつある「万世橋」辺り、たくさんの屋形船が浮かんでいる 「浅草橋」から「柳橋」辺りを過ぎ、「柳橋」で「神田川」は終わります。船は、また、「隅田川」に戻って来ました。
 この後、ツアーは「小名木川」「綾瀬川」「荒川」と川を巡り,河口の埋立地の運河を行き、「勝鬨橋」北詰テラスの船着場で下船しました。多くの川を巡 り、数々の橋を潜り、川から都会の街を見上げ、普段とはちがった東京を見ることができました。また、江戸時代の人々が、このように、川を生活の一部として 利用していたということもわかりました。そして今も、東京は川に囲まれた街なのだということを実感しました。いつもとは全く違った風景に触れ、遠くに旅を したような不思議な一日でした。


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●寄稿 
大須賀 豊 /  新しい はね橋

  変化しつづける、ウオーターフロント地区の豊洲に、新名所が二〇〇六年一〇月五日に登場しています。かつてIHI(旧 石川島播磨重工業)の敷地を利用したショッピング街と、旧造船用ドックが水上バスの発着所とされ、その入口に新しいはね橋(アーバンゲートブリッジ)が誕 生しているのです。両側にワイヤーで吊り上げてハの字型に上昇させる形式のものです。
 ワイヤー形式で思いつくのが、ゴッホの「はね 橋」です。それは天秤棒でバランスを取って上げているようですが、新しいこちらは、滑車を橋先端に組み込み、力尽くで上げています。主塔には、イルミネー ションなども取り付けられて、敷地からレインボーブリッジ方面の風景にアクセントをつけています。寄り添う二人が、夜景を眺めている時に、下りてきて、一 体に併合する橋の場面に出会えれば、将来に二人の夢も膨らむことでしょう。
マスコミにも取り上げられた、キッザニア東京の入っているショッピング街周辺 は公園として整備され、造船所で使用していたクレーンや、船の部材がモニュメントとして置かれ、過去の光景を思いめぐらすこともできます。出入りする水上 バスは、松本零士氏がデザインした宇宙船をイメージしたものです。古い岸壁に未来の船に乗船した子供たちは、将来を夢見ながら、開放した橋を通過して着岸 することと思います。また、この敷地周辺は海辺の街として、潮の香りを楽しみながら回遊できる公園としても整備されています。回遊道路の一部としても、こ のはね橋が公園の中間地点のモニュメントにもなっているようです。
 さて、公園橋で、すぐ思いつくのが、江東区の木場公園にある木場公園大橋で す。仙台堀川と葛西橋通りで分断された二つの公園をつなぐために架けられています。主塔の高さが五九mの斜張橋です。公園のどの位置からも、眺めることが でき、正に公園のシンボルです。また、多摩地区に、車道で分断されている公園の運動場を繋ぎ、その存在がモニュメントになっているものが稲城中央公園にも あります。くじら橋と言うPC門型ラーメン橋です。下から見るとコンクリート曲面がくじらの大きなお腹をイメージできて、非常に印象に残る橋です。田中賞 (※)を受賞している両橋は、二つの部分を繋ぐという本来の目的と、視覚的に印象に残る橋という意味でも価値があるようです。(参考・大阪市瑞光寺のくじ ら橋の愛称で呼ばれている雪鯨橋は、鯨の骨を欄干に使用している。)
 アーバンゲートブリッジはどうでしょうか?長い連続性を必要とする海岸沿い の遊歩道の中間にあるのですが、目線を変えて見れば、船着場から、東京湾という大海への出口にある凱旋門のようにも思えます。アーバンゲートブリッジは、 過去の思い出と動く橋という時間軸での印象をもたせて、豊洲公園に一味そえており、宇宙まで繋がる未来へのかけ橋のような存在だと思います。
 勝鬨橋も、オリンピック誘致という夢に向かい、「勝鬨」をあげて架けられた 架設当時の夢を思い出しながら、今の夢を実現させて、「勝鬨」をあげられるように、都心へのゲートをあげたいものです。
 (※)震災後の復興橋梁に活躍した田中博士の功績をしのび、土木学会が
    毎年橋梁等の優秀な業績に対して贈る賞


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●レポート 加藤 豊 / 「隅田川橋梁(仮称)」の進捗状況 

 会員の多くの方が、「勝鬨橋」から約六〇〇m下流に架橋される「隅田川橋梁(仮称)」について関心を寄せておられますので、みなさんのご期待に副えます かどうか?概略で報告します。


◆環状第二号線-通称R2-につい て
  R2は江東区有明から中央区晴海、港区新橋~虎ノ門~赤坂を経て千代田区神田佐久間町間を結ぶ、全長一四キロの環状道路。その完成を目指した都市計画事業 の一部(有明~豊洲間)が平成五年に認可されて以来、東雲運河には有明北橋が完成。次の豊洲・晴海水域で豊洲大橋が工事中。
 一方、地下トンネル部分の虎ノ 門~新橋~築地の区間(築地で地上に出て「隅田川橋梁」に合流)の工事も進行中で、平成二七年度の完成予定。また、虎ノ門、新橋のランプ近辺のビル形体が 斬新になる予測。

◆「隅田川橋梁(仮称)」の事業推 移と概要
  現、築地市場が存続する前提であった当初の計画では、築地~(隅田川)~勝どき~(朝潮運河)~晴海間は地下トンネルであったが、市場の移転計画が決まっ た時点で平面・橋梁構造に変更され、平成一九年一二月に都市計画事業の認可に至った。これにより今後は用地測定、技術的細部検討、各説明会開催の段階を経 て本番着手となる。
  ●コンセプト(関係筋は自信を もって明言)
  ・隅田川にはアーチ橋が多いの で同じ方向 性をとる。
  ・新・玄関橋として近代性と品 格ある容姿を具現化。
  ・勝鬨橋が景観上で埋もれるこ とのないように両橋のバランスに配慮
  (型・色)、同 時に浜離宮にも配慮。
  ●形状[イメージ図①]V型橋 脚、中路式三径間アーチ、桁下五、八m
  高さ=景観条例のもとで検討 中。
  ●車線数往復4車線及び側道二 車線。
  ●橋上歩道の形状[イメージ図 ②]歩道全体を車道から少し離して外側に
   カーブさせることで、川面景 観を楽しめるようにし ている。
  ●完成時期平成二七年度(予 定)
  (但し、市場の移転時期とか朝 潮運河側の橋梁取付け位置変更など、
   未確定要素あ り)

◆景観意匠検討委員会の年内開催
  外部から藤野陽三氏(東大教授)、大野美代子氏(アートデザイナー)を招き、橋と周辺との景観バランスを検討。慎重且つ早急の結論が期待されている。
※(都は、多様な価値観をもつ都民 質疑への対応上からか?諸工事を粛々と進める一方、情報の開示には慎重である。当該事業でも、都所有の橋=都民の橋として、せめて四半期ごとに、その進捗 状況を都の広報に開示してほしい)





●〈香蘭女学校・中等部卒業論文〉K/S(中央区)
 「どうすれば勝鬨橋は再びあがるのか」(続)


三 あげたときの問題点・利点
 二〇〇六年四月二六日、勝鬨橋の 開閉再開について調査していた社団法人「土木学会」は「外見上は技術的な問題はない」とする調査結果を発表した。古くなったモーターや電線は取り換える必 要があるが、技術的には開閉可能だそうだ。六〇年以上も前の技術者たちのわざのすばらしさには驚かされる。しかし、二〇〇〇トンの跳開部を支える最重要部 である回転軸の消耗具合が外見からはわからない。この回転軸の点検にはばく大なお金がかかるそうである。
 勝鬨橋をあげる際の修理費には一〇億円ほどかかるという。この一〇億円をどう出すかが問題になる。都 の道路整備の予算から出すのは難しいので文化事業ということにしても、都民が税金をこのために使うということを承諾してくれるかはわからない。日本大学理 工学部社会交通工学科の片桐隆晴さんの卒業論文「『勝鬨橋が再び開くこと』の経済評価」によれば、二〇〇五年には都税の納税者は約六〇〇万人おり、一〇億 円を集めるには一人あたり一六六六円集めればよいということである。また、片桐さんの調査、「勝鬨橋が再び開くときに支払ってもよい金額」では都民の中央 値(二人に一人が払ってもよいと思う金額)は六九六九円であった。しかし、すべてを都民の負担としなくても、債権方式で全国から基金を集めることも方法で ある。
 また、勝鬨橋をあげた時の問題点としてよくあげられるのが交通渋滞を引き起こすのではないかというこ とである。これは勝鬨橋が開閉をやめた理由でもある。一九六〇年代に勝鬨橋があがった時には、渋滞が二キロ先の日比谷交差点まで続いたという。
 一九九九年に勝鬨橋をあげる会が「勝鬨橋正月三日の交通調査」というものを行った。それを見ると、平 日は午前八時から九時が自動車交通量のピークで二三六〇台であるが、正月では一番少ない六〇八台であった。このように、正月や休日の早朝にあげれば交通渋 滞は少なくてすむ。
 また、有明から晴海と汐留・虎ノ門方面を結ぶ環状第2号線(R2)が建設予定である。これは今まで隅 田川の最下流の橋であった勝鬨橋のさらに下流にできる。このR2によって銀座方面から臨海地域への交通量が減り、交通渋滞がおこりにくくなる。また、R2 は大震災の時の避難路にもなるので、歩道を広くとる。すると、勝鬨橋をあげた時に多くの人に橋をR2の橋から見てもらうことができる。
 しかし、R2の橋ができることで生じる問題もある。まず隅田川の玄関橋というキャッチフレーズが消え ることである(R2は「地下トンネル」にするという計画もあったが、安全上の問題などにより、隅田川の上を渡る「橋」として建設されることになった)。ま た、R2は大きな橋となるので、勝鬨橋が小さく見えてしまってインパクトがなくなってしまう恐れがある。
 しかし、勝鬨橋をあげることの一番の利点は、下町の活性化と、新たな観光の目玉として期待されること だと思う。
 築地市場の移転問題は、市場の衛生面から必要になるという。一つの観光名物がなくなるのは残念である が、その代わり、隅田川をのぼった浅草地域などと連携していくことで、下町という古きよき日本の面かげの残るすばらしい地域として、さらに国内外の人に 知ってもらうことができるのではないか。
 また、実現した「橋の跳開」が日本の優れた工業技術を、さらに世界に知らせることができると思う。
 石原都知事は、「企画としては大変面白い」として跳開を検討している。また、中央区長も熱く賛同して いる。


四、結論
 交通渋滞に関しては、車が多い時 を避けて、または思い切って止めてしまうことで(都知事も「閉塞した気分をもりあげパッとひろげるにはいいだろう」と言っていたことだし)いくらでもどう にかなるはずだ。私はできるだけたくさんの人が集まれるような日に、たとえば日曜日の朝に月一回あげれば、川沿いや周辺散策なども楽しめてよいと思う。
 費用に関しては一番むずかしいところだが、都税だけでなく債権方式で資金を集めるのが一番よいと思 う。現在はオリンピックや築地市場の問題があって、都は勝鬨橋をあげることについて具体的に取り組めていないが、これから先は地元や勝鬨橋をあげたいと 思っている人々が、都と共に動いてゆくことが大切だと思う。
 私は今回勝鬨橋のことを調べて、また勝鬨橋の内部を見学したりして、自分のすぐ身近にこんな面白いも のがあったことにとても驚いた。勝鬨橋はあがらなくても面白いのに、この橋があがったらどんなに面白いだろうか。本当は万博やオリンピックのメインゲート となるはずだったということや、橋についている古い信号機は何のためにあったのかのかということについて知っている人は、地元でも少ないだろう。私はもっ とたくさんの人に勝鬨橋のことを知ってもらいたい。勝鬨橋は、地域の誇りになる。そして、勝鬨橋をあげるためには、まず多くの人にその存在を知ってもらう ことが、一番重要だと思っている。
 「勝鬨橋をあげる会」が二〇〇五年に行った「勝鬨橋とその周辺・夢企画」の中で、「もし勝鬨橋があ がった際に行いたいイベント等」を募集した企画があって、それには屋形船にゴジラをのせて流したり、あがっている橋の間に幕を張ってスクリーンにして、映 画を上映したりといった楽しそうな企画がたくさんあった。私は勝鬨橋が、下町観光の目玉になればいいなと思う。
 いつか皆さんの夢が叶うことを信じている。
 
 最後になりましたが、「かちどき 橋の資料館」の木住野さん、「勝鬨橋をあげる会」の加藤さんに大変 お世話になりました。ありがとうございました。

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