中等部卒業論文 「どうすれば勝鬨橋は再びあがるのか」 S.K(中央区)

S.Kさんの卒業論文掲載について

 S.Kさんが在籍するK.女学校は、中・高一貫校で高校受験がなく、その代わりとして、中等部卒業年度に原稿用紙30枚程度の卒業論文提出が規定だそうです。

 小学校に通っていたころに、総合授業で「勝鬨橋」についての話を聞いたことから興味を持ちはじめ、卒論テーマにされたとのことでした。

 S.Kさんの探求過程で、「勝鬨橋をあげる会」が説明と資料の提供をしました関係からポンテに掲載のご承諾をいただきました。中学生時代にエポックを画した立派な研究成果です。



序 勝鬨橋の説明

 奥秩父を源とする荒川から新岩淵水門付近で分かれ、東京湾へ注ぐ24kmの隅田川。古くは平安時代の「伊勢物語」に登場するこの川は、江戸時代には大川と呼ばれて親しまれ、文化と交流の中心でもあった。明治以後も東京の人々の生活をその水面に映し出してきた。

 勝鬨橋は晴海通りの一部として、築地6丁目と勝どき1丁目を結んでいる。

 橋長246.0m、幅員22.0m。「橋を支える橋脚・橋台は鉄筋コンクリート造で、上部構造は中央二連の跳開部分と、その両側の固定部分で構成される。跳開部分は中路式の可動桁及び機械装置より成り、固定部分は、支間長86mの下路式アーチである。」(都庁ホームページより)中央の可動径間は44m、跳開橋の重量は橋桁が約千トン、錘(おもり)が千トンの合計約2千トンである。

 当時の東京市が海運と陸運の共栄を意図して建造した特殊な構造形式で、国内唯一のシカゴ式二葉式跳開橋であり、国内最大の可動橋である。また、現存する可動橋のうち6番目の古さである。戦後にこの橋を見たアメリカ軍は、設計、施工すべて日本人が行なったことを信じなかったという。

 1999年に東京都の歴史的建造物に指定され、さらに2007年6月18日、「清洲橋」「永代橋」と共に、「国内最大の可動支間を有する技術的完成度の高い構造物」として国の重要文化財に指定された。

 勝鬨橋の端から端まで私の足では3分で渡りきることができる。勝どき1丁目から渡ると右側には隅田川にせり出すように建ち並ぶ佃の高層マンション群が見える。左側には東京湾を臨み、東京タワーや最近できたばかりの汐留の高層ビル群が見える。とくに日が暮れる頃の風景はとてもきれいだ。また、橋の中央に立って、隅田川と東京湾を行き来する屋形船や遊覧船をはじめ、さまざまな形の船舶を眺めたり、波間に浮かぶかもめたちを見るのも楽しい。

 橋は銀色に塗られている。昼間見る重厚な姿もよいが、夜、アーチが緑色、橋桁が青色にライトアップされた姿は本当に美しいと思う。また、戦時中の鉄不足により石を使った欄干もユニークだし、跳開部の前に、見張り台や運転室などの小屋がついていることも、見る者を引きつける面白さがある。

 実は私は勝鬨橋まで徒歩3分のところにある勝どき2丁目に住んでいる。通っていた月島第二小学校も勝鬨橋のたもとにあり、小学校の卒業アルバムには勝鬨橋の前で撮った集合写真が大きく載っている。勝鬨橋はこの地区の住民にとってとても身近な存在であり、また地域が誇る代表的な建造物である。

 小学校3年生のときの総合の授業の時、地元のおじさんが来て、勝鬨橋の話をしてくれた。その時初めて勝鬨橋が跳開橋であることを知った。今は動かぬその橋が、かつてあがっていたという事を知ったときは本当に驚いた。また、橋があがったところを思わず想像し、ぜひ自分の目で見てみたいと思った。

 そこで、

 1.勝鬨橋の歴史、当時の様子 

 2.「勝鬨橋をあげる会」

 3.あげた時の利点と問題点

 4.どうすれば勝鬨橋は再びあがるのか

 を以下に考えていきたいと思う。



1.勝鬨橋の歴史・当時の様子

 加藤豊氏によれば、勝鬨橋は「通常の架橋と異なって、東京府、市の長年の願いである『築港事業』が諸々の事情から紆余曲折する<時の流れ>の中で誕生した橋」だという。

 明治の初期から唱えられていた東京湾の築港事業が明治15年の荒川の大洪水の後に始まり、土砂処理として月島の埋め立て地ができた。2号地(勝どき)は明治27年完成。勝鬨という名前は日露戦争の勝利を祝ってつけられた。築地方面への行き来は船(渡し)で明治25年頃には月島の渡し、同38年には勝鬨の渡しが開設された。

 月島地区は工業地帯として発展し、人口も数万人に増えた。築地方面へわたる人は1日に歩行者3万人、自転車1万人であった。強風や台風の時は渡しは使えず、対岸で働く人は仕事を休まなければならなかった。

 そこで、月島の交通不便の解消と晴海などの埋め立て地の開発支援のため、大正4年に、1回目の架橋計画が持ち上がったが実現しなかった。2回目も予算の問題で実現せず、3回目の関東大震災後も計画が見送られた。

 ようやく4回目、昭和5年に架橋が決まった。その後、「東京オリンピック」「万博」が月島(現在の豊洲あたり)で行われることが相次いで決まり、勝鬨橋は両会場への玄関交通路としての役割を持つことになった。

 しかし戦争の激化から万博もオリンピックも中止となり、勝鬨橋の架橋計画だけが残り、昭和8年工事が始まる。勝鬨橋が二葉式の跳開橋になったのは、第一に工業地帯月島への物資を運ぶ船、特にマストの高い船が自由に航行出来る橋でなくてはならなかったからである。跳開,昇開、旋回など数ある可動橋の中でも二葉式が採用されたのは、同時故障の確率が低く片側だけでも開けられるという危険分散、耐震性や安全面で優れている上、跳開橋の中でも最も外観が良いからである。建設の際にはアメリカから援助の申し出もあったが、橋の設計・建設はすべて日本人の手で行われた。当時最先端の技術を集めて作られていて、可動方式ではいくつかの特許を取っている。

 昭和15年の6月14日に竣工。開通式にはモーニングや留め袖などの正装をした親子3代による渡り初めと、さらに開いた橋の下をくぐるくぐり初めも行われた。戦前は1日に平均5回開閉し、1日の歩行者数は9970人、自動車6413台であった。

 開閉には最速で70秒かかり、橋は70度あがり、1回あがるにあたり30分程、交通が遮断される。操作をしているのは自治体職員で、見張り室と操舵室にいる。1950年に年間800回開いたのがピークで、オリンピックの年の昭和39年には年70回に減っている。昭和30年代頃から自動車保有台数が増えるにつれて開閉回数は激減していった。昭和22年には当時市民の足として親しまれた都電が2系統開通。現在もかつて電線を引いていた部位が残っている。昭和36年には開閉回数は1日1回になった。昭和43年には都電も廃止。同年3月にあがったのが船を通すための開閉では最後になった。その後は年に1、2回管理のために開閉を行っていたが、道路混雑を直接的な理由に昭和45年11月30日を最後に開かずの橋となった。


当時を知る人のお話

  「勝どき橋の思い出」  潘 桂華さん

 私が小学校に入ったのは昭和25年でした。当時は銀座に住んでおり、あまり築地には縁がなかったのですが、昭和29年に現在の場所(築地本願寺の隣)に引っ越して以来ずっと同じ場所で営業を続けております。その頃はテレビもなく子供達の遊びといえば外で野球、鬼ごっこ、かくれんぼ等が主なものでしたが、その中で見知らぬ土地へ行って探検するのも子供心にわくわくする遊びの一つで、探検といっても遠い場所に行くのではなく、いつも自分たちの遊びのエリアを越える程度のものでした。今は合併してなくなってしまいましたが、銀座1丁目に京橋小学校という学校があり、当時1学年が4クラスでそれぞれ50人ちょっと合わせて1200人以上の子供が通っていました。いま思えばあんな小さなスペースにそれだけの子供が居たんだなと感慨もひとしおです。

 私は引っ越しても地元ではなくその学校に通っていた関係で、私と友達にとって、いつも遊ぶのは学校のそばの公園か近所の路地または校庭でした。そんな友達に声を掛けて本願寺の境内で、いまは禁止されましたが野球をしたり鬼ごっこなどいろいろな遊びをしました。友達にとって築地はテリトリーではなくまさに私が主役でした。そんな友達を誘ってミニ探検によく出かけたもので、放課後5、6人を誘って学校から本願寺、勝鬨橋を渡って月島、今はなくなってしまいましたが、佃の渡しに乗ってまた学校に戻るコースでした。

 当時は晴海通りを都電が走っておりましたが、当然そんなものには乗らずひたすらてくてく歩いての道のりでした。佃の渡しは人と自転車が一緒に乗れるポンポン船で東京都が運行しており、勿論無料で、天気のよい日には隅田川の川風に吹かれてとても気分のよいのどかな雰囲気でした。

 勝鬨橋は、午前9時と12時、3時の1日3回あがっており、橋の上流には石川島の造船所や倉庫群が多数あって今よりも海上輸送が盛んで、そんな関係で隅田川にも船の往来が頻繁に行われていました。

 橋が上がる5分前にはサイレンが鳴り、上り下りの都電も車も係員の指示で橋の手前でストップし、歩行者のみ開閉する場所の直前まで行けました。橋の上には人も車も居なくなりいよいよ橋が上がりはじめます。私の記憶では、約7〜8分かけて上がったと思います。徐々に橋の中心が離れ、角度が付くにつれて橋の上にあった砂や埃がザーッと滑り落ちていき、その様は子供心にもなんかドキドキ、ワクワクするような感じがしたのを、今でも鮮明に憶えております。橋が目一杯開くと、その下を待機していた船が次々に通過して行き、約15分間開いており、船が通り終わると今度は、徐々に音もなく前と同じ状態にもどり、その間、約30分それは見事なショーでした。当時は交通量も現在ほど多くなく、橋の開閉の間、通行止めにしても、そんなに交通渋滞の起きることはありませんでした。小学校の頃は頻繁に橋を見に行きましたが、徐々に開閉回数が減り、昭和45年を最後に開かずの橋となってしまいました。個人的にはとても残念な気がいたします。

 東京オリンピックを境に、東京の姿は高度経済成長に伴って経済効率主義に進んでいき、ともすれば古き良きものが犠牲となって来たきらいがありました。

 最近、東京の観光が都をあげて推進されいろいろな歴史的な建造物が見直されつつあります。

 7月の都議会に於いても議員の質問に対し石原都知事が大変興味をもって、勝鬨橋の開橋も含め、東京の観光の活性化を積極的に進めていく方針を述べました。私としても是非東京のイベントとして、先人の英知を今に蘇らせたいと思っております。

(PONTE19号寄稿より)



 
2.「勝鬨橋をあげる会」

 そんな勝鬨橋を再びあげ、壮観なその姿を見たいと活動している人々がいる。

 あげる会は、前身の「みんなのチエを集めて勝鬨橋をあげる会」が1989年に地域新聞の協賛で発足し、91年に解散した後93年に有志で新規に発足した。活動方針を「勝鬨橋の土木文化財としての価値を再発見する」「昭和45年に開かずの橋となった勝鬨橋の動態保存を目指す」「『橋のあるまち』の活性化をはかりまちづくりをサポートする」「橋を出発点に、日本はもとより世界の土木文化を学ぶ」とし、全国の橋のあるまち地元団体のバックアップ、学術資料の提供、さまざまなアドバイスをしたり、橋めぐりツアー、シンポジウムや勝鬨橋のたもとでの青空写真展の開催、「もし勝鬨橋があがったら」の夢の企画を募集したり、今でもたくさんの可動橋が動いているシカゴへの見学ツアーなど、さまざまな活動を行っている。また、会誌の「ponte」を1993年から年2回発行し、現在28号まで出ている。代表の工学博士・伊東孝教授(日本大学)の全国的な活動により、会員の約半分が地方の方である。「勝鬨橋をあげる会」は新聞などのメディアにも数多く取り上げられ、かつて交通量の増加に伴い晴海通りを6車線化した際、4車線の勝鬨橋が交通渋滞を引き起こすとして勝鬨橋架け替えのプランが考えられたことがあったが、その時「あげる会」が都庁内の保存派の力になったといわれている。



3.あげたときの問題点・利点

 2006年4月26日勝鬨橋の開閉再開について調査していた社団法人「土木学会」は「外見上は技術的な問題はない」とする調査結果を発表した。古くなったモーターや電線は取り換える必要があるが、技術的には開閉可能だそうだ。60年以上も前の技術者たちのわざのすばらしさには驚かされる。しかし、2000トンの跳開部を支える最重要部である回転軸の消耗具合が外見からはわからない。この回転軸の点検にはばく大なお金がかかるそうである。

 勝鬨橋をあげる際の修理費には10億円ほどかかるという。この10億円をどう出すかが問題になる。都の道路整備の予算から出すのは難しいので文化事業ということにしても、都民が税金をこのために使うということを承諾してくれるかはわからない。日本大学理工学部社会交通工学科の片桐隆晴さんの卒業論文「『勝鬨橋が再び開くこと』の経済評価」によれば、2005年には都税の納税者は約600万人おり、10億円を集めるには1人あたり1666円集めればよいということである。また、片桐さんの調査、「勝鬨橋が再び開くときに支払ってもよい金額」では都民の中央値(2人に1人が払ってもよいと思う金額)は6969円であった。しかし、すべてを都民の負担としなくても、債権方式で全国から基金を集めることも方法である。

 また、勝鬨橋をあげた時の問題点としてよくあげられるのが交通渋滞を引き起こすのではないかということである。これは勝鬨橋が開閉をやめた理由でもある。1960年代に勝鬨橋があがった時には、渋滞が2キロ先の日比谷交差点まで続いたという。

 1999年に勝鬨橋をあげる会が「勝鬨橋正月3日の交通調査」というものを行った。それを見ると、平日は午前8時から9時が自動車交通量のピークで23360台であるが、正月では1番少ない608台であった。このように、正月や休日の早朝にあげれば交通渋滞は少なくてすむ。

 また、有明から晴海と汐留・虎ノ門方面を結ぶ環状第2号線(R2)が建設予定である。これは今まで隅田川の最下流の橋であった勝鬨橋のさらに下流にできる。このR2によって銀座方面から臨海地域への交通量が減り、交通渋滞がおこりにくくなる。また、R2は大震災の時の避難路にもなるので、歩道を広くとる。すると、勝鬨橋をあげた時に多くの人に橋をR2の橋から見てもらうことができる。

 しかし、R2の橋ができることで生じる問題もある。まず隅田川の玄関橋というキャッチフレーズが消えることである(R2は「地下トンネル」にするという計画もあったが、安全上の問題などにより、隅田川の上を渡る「橋」として建設されることになった)。また、R2は大きな橋となるので、勝鬨橋が小さく見えてしまってインパクトがなくなってしまう恐れがある。

 しかし、勝鬨橋をあげることの1番の利点は、下町の活性化と、新たな観光の目玉として期待されることだと思う。

 築地市場の移転問題は、市場の衛生面から必要になるという。一つの観光名物がなくなるのは残念であるが、その代わり、隅田川をのぼった浅草地域などと連携していくことで、下町という古きよき日本の面かげの残るすばらしい地域として、さらに国内外の人に知ってもらうことができるのではないか。

 また、実現した「橋の跳開」が日本の優れた工業技術を、さらに世界に知らせることができると思う。

 石原都知事は、「企画としては大変面白い」として跳開を検討している。また、中央区長も熱く賛同している。



4.結論

 交通渋滞に関しては、車が多い時を避けて、または思い切って止めてしまうことで(都知事も「閉塞した気分をもりあげパッとひろげるにはいいだろう」と言っていたことだし)いくらでもどうにかなるはずだ。私はできるだけたくさんの人が集まれるような日に、たとえば日曜日の朝に月1回あげれば、川沿いや周辺散策なども楽しめてよいと思う。

 費用に関しては一番むずかしいところだが、都税だけでなく債権方式で資金を集めるのが一番よいと思う。現在はオリンピックや築地市場の問題があって、都は勝鬨橋をあげることについて具体的に取り組めていないが、これから先は地元や勝鬨橋をあげたいと思っている人々が、都と共に動いてゆくことが大切だと思う。

 私は今回勝鬨橋のことを調べて、また勝鬨橋の内部を見学したりして、自分のすぐ身近にこんな面白いものがあったことにとても驚いた。勝鬨橋はあがらなくても面白いのに、この橋があがったらどんなに面白いだろうか。本当は万博やオリンピックのメインゲートとなるはずだったということや、橋についている古い信号機は何のためにあったのかのかということについて知っている人は、地元でも少ないだろう。私はもっとたくさんの人に勝鬨橋のことを知ってもらいたい。勝鬨橋は、地域の誇りになる。そして、勝鬨橋をあげるためには、まず多くの人にその存在を知ってもらうことが、一番重要だと思っている。

 「勝鬨橋をあげる会」が2005年に行った「勝鬨橋とその周辺・夢企画」の中で、「もし勝鬨橋があがった際に行いたいイベント等」を募集した企画があって、それには屋形船にゴジラをのせて流したり、あがっている橋の間に幕を張ってスクリーンにして、映画を上映したりといった楽しそうな企画がたくさんあった。私は勝鬨橋が、下町観光の目玉になればいいなと思う。

 いつか皆さんの夢が叶うことを信じている。

 

 最後になりましたが、「かちどき 橋の資料館」の木住野さん、「勝鬨橋をあげる会」の加藤さんに大変お世話になりました。ありがとうございました。






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